Human dispersal across diverse environments of Asia during the Upper Pleistocene
Quaternary International 300:32(2013)
(1)のつづきです。
・レバントの早期現生人類
最も早期の現生人類(Homo sapiens)化石は東アフリカにおいて195000年前および160000年前と推計されています。これはMIS7の終わりにあたり、MIS6になると気候が寒冷乾燥化し、砂漠が拡大し人類がアフリカを出る道が途絶します。MIS7後期の次に出アフリカの機会の窓が開くのはMIS5となります。MIS5には気候が温和になり、東アフリカとサハラ地帯において中期石器時代の遺跡が比較的豊かになり、出アフリカの条件が整ったと考えられます。このことから、彼らは出アフリカの時期をMIS5と考えています。
レバント地方のスフール、カフゼー遺跡には、12~13万年前と考えられる現生人類の化石が残っており、これはMIS5の早期、MIS5e期にあたります。この移住については多数の意見がありますが、これまでは一時的な居住にすぎなかったとするものが主流でした。この地方で見つかる石器はルヴァロア技法を用いるムスティエ文化に属するもので古風なものであり、ネアンデルタールとの競争がないために技術の革新が行われなかったのだろう、とする意見があります。しかし石器はそもそも認識よりも環境の違いによって変化するものであり、ネアンデルタールと関連づけるのは不適当と思われます。遺伝子的には当地でネアンデルタールとの交配があったことが示唆されています。
初期の出アフリカは、他の動物や植物相の移動に伴うものと考えられます。化石的な証拠に乏しいですが、実際アラビアにおいて化石的な証拠は完新世までないのです。近年の頭蓋骨比較の報告によれば、レバントに移住した人類はオーストラリアに早期に植民した人類と類似しており、MIS5にレバントへ移住した人類が残存してオーストラリアまで植民したという意見を支持します。古気候学的には、MIS5においてこのような植民の障害になったものは見あたりません。アラビア半島において気候学的な障害はMIS5、とくにMIS5eおよびMIS5aのときに最も小さかったと思われます。MIS4およびMIS6ではモンスーンの降雨が減少し、サハラ、アラビア、タールなどの砂漠は拡大していたはずです。しかし、MIS5eおよびMIS5aでは砂漠は縮小し緑地が拡大していたと思われます。
・古気候区の復元
彼らは出アフリカ後の足跡を明らかにするために、MIS5およびMIS4における気候の復元を行っています。これは、主として花粉分析や過去気温分析などの古気候解析によっていますが、従来の気候区復元は地形の影響を無視している場合が多かったとのことです。彼らは、現在の植生と比較するなど、地形の影響をなるべく考慮しています。
この図については(3)に転載します。彼らによると、このような図はおそらくいままでにない、とのことです。
・MIS5における出アフリカの想定
出アフリカのルートは2つ考えられ、ひとつはサヘル気候区の帯を進む形で紅海の西側を北進し、シナイ半島の南側を通ってアラビア半島に入るものです。このルートはそのままサヘル気候区を通ってアラビア半島の南方、東方へとつながりますが、一方でレバント地方へ入るルートにもなりえます。
また、紅海の南端(バブ・エル・マンデル海峡)を渡海するルートも考えられます。過去15万年におよぶ紅海水深の予測によれば、この海峡が5~15kmと狭くなったことが何度もあり、これは当時の航海技術で十分渡海できるものでした。このような狭い海峡はMIS6からMIS5eにかけての時期にも見られていました。
MIS5において、アフリカを出た後の環境はたいへん良いもので、比較的迅速に拡散が進んだと予想されます。現在、食用になるものも含む数多くの植物がアフリカ、イエメン高地、南アジアに分かれて分布していますが、MIS5においてこれらの植生はひとつながりになっており、より豊かであったと思われます。ガゼルやダチョウなどの動物もサバナ-サヘル地帯に豊富にいたはずです。アフリカからアラビアへつながるルートは、タール砂漠の縮小もあり、ほとんど同じような環境で大きな適応なしに人類の拡散が可能だったと思われます。
MIS5において、河川はもうひとつの拡散ルートとして考えられます。当時は豊富な水量があったため、アラビア半島を横断するような河川のルートがあったと思われます。
考古学的な証拠はあまり明らかなものではありません。アラビアには豊富な中期旧石器時代の遺跡がありますが多くが表層から見つかるために年代の特定ができません。近年、ペルシャ湾から55kmはなれたJabel Fayaにおいて、東アフリカ由来と思われる石器が125000年前と同定されています。オマーンのドファール地区において河川のドレナージを行ったところ、ヌビアン(エジプト-スーダン地方、ナイル川流域)に由来する石器が多数みつかり、これらは106000年前と同定されています。ジュッバ(サウジアラビア、ネフド砂漠)の旧湖沼の湖畔から見つかった中期旧石器時代の遺跡はMIS5およびMIS7のものと考えられ、植物化石の報告から、気候が温和だった時期はここに草原といくらかの樹木があり、人類がこの環境を突破することができたと考えられます。
多数のルートが可能であることを考慮すると、人類の出アフリカは複数回であり、より複雑な拡散のシナリオを想定するべきと思われます。特に北部においてアラビア半島の気候は温和であり、ここでネアンデルタールと共存していたと思われ、交配の可能性が考えられます。
一方MIS4においては北アフリカとアラビア半島で砂漠の拡大がありました。このことより出アフリカルートとしてはバブ・エル・マンデル海峡のものだけが想定できますが、当時の海峡両岸の気候はおそらく厳しいものであったと考えられます。草原はおそらくイエメン高地やオマーンの南西および東という内陸に限局し、MIS4やMIS3にはそこに孤立した人類がいたことが遺跡からわかっています。豊かな海岸の指標となるマングローブ林も縮小しており、この時期、狩猟採集民にとって良い土地ではありませんでした。MIS4の時期に出アフリカがなかったとまでは言えませんが、海岸環境を考えると可能性はおそらく非常に低いものと思われます。
・インドへの道のり
アフリカ~アラビアからインドへのルートは複数想定されます。もっともありそうなのはサヘル気候地帯を進むもので、アフリカからアラビア半島の南岸を回って、イラン南岸まで同じような気候区が続いており、さらにはデカン高原のサバナ気候につながり、新しい環境に適応する必要がほとんどありません。ただ、このルートはホルムズ海峡をイラン南岸に渡ったかどうかが問題であり、この部分はペルシャ湾を回ったと考える方が妥当かもしれません。
次にありそうなのがレバントに植民した人類がチグリス・ユーフラテスの河川を下ってペルシャ湾に至るものです。ただこのルートは新しい環境への適応が少し必要となります。
イラン高原を通るルートは想定されますが可能性はやや低くなります。それはザグロス山脈が地形的にやや厳しく、新規の植生に適応する必要があり、またネアンデルタールが先住していた可能性が高いからです。
MIS5ではタール砂漠は大幅に縮小しており、インド亜大陸への進出はMIS4のときより容易でした。
MIS5に南アジアに人類が到達していたかどうかについて、化石的な証拠はほぼありません。考古学的証拠には興味深いものがあります。インド亜大陸の中期旧石器時代の遺跡が多数発見され、これらは後期アシューレアン文化より新しい世代のものと考えられています。南インドのJwalapuramは78000年前の中期旧石器時代技法の遺跡と推定されています。石核の特徴はアフリカのMSA期におけるホモ・サピエンスのものに相似しており、ネアンデルタールの技術とは区別できるものです。また中期旧石器時代の技法と思われる遺跡が、タール砂漠の16R Duneにおいて発見され、130000~109000年前と推定されています。また同様にスリランカのIranamaduにおいて125000~75000年前とされる遺跡が発見されています。これらの遺跡が現生人類以前のホミニンが作ったということは否定できませんが、少なくともMIS5aまでには南インドに現生人類が到達していたという可能性について熟考する必要はあると思われます。
インドの気候はMIS5からMIS4にかけて比較的温和なものでした。インドの気候は基本的には豊かな資源を持っており、気候変動によって資源の内容に変化はあったものの、激減することはありませんでした。そのためインドには近隣と比べ長期にわたって高い人口があったと考えられます。
インドに到達した現生人類は旧人と遭遇したはずです。ナルマダ川の頭蓋骨化石からはMIS6か5の時期にホモ・エレクトスあるいはハイデルベルゲンシスと予想される旧人がいたことが示されます。アシューレアンの遺跡は中期旧石器時代の早期から中期のものと考えられ、長期にわたる旧人の居住があったと推定されます。北インドのSon谷からは140000~130000年前と推定される後期アシューレアンの遺跡があり、MIS6から5の移行期に旧人が居住していたと思われます。現生人類は南アジアで旧人と競争し、旧人を絶滅させたのかもしれません。旧人が絶滅する前に現生人類と交配した可能性も否定できません。
・東アジア、東南アジアへの道のり
インドの気候はサバナとサヘル気候が主体で基本的にはアフリカと相似しています。それに比べインドの東は大幅に気候が違い、そこへの植民は大きなチャレンジであったと思われます。北東インドのアッサム周辺は濃い熱帯林に覆われた丘稜で季節的な洪水と湿地帯を伴います。熱帯雨林は一般的に人口が低いことが知られています。ここに入るには熱帯雨林への適応と、湿地帯で多い病気への抵抗が必要であったでしょう。インドとインドシナ半島の間には明らかな生物学的障壁があり、ブラマプトラ川が多くの種の境界となっています。ブラマプトラの先にも、今日のミャンマーにおいて生物相の違いがあり、生物学的障壁は複数あると考えられます。このような障壁はヒトの遺伝子、文化、技術、農業・牧畜、において差となって見られます。ブラマプトラとミャンマーの境界は、旧世界において最大級の生物学的境界と考えられます。
このことから、東アジアと東南アジアへの植民はMIS4以降である可能性が高いと思われます。植生の大幅な違いがあり、ヒトは大きく生活を変える必要がありました。おそらく、人口圧や環境の変化がなければ人類はこの土地へ進出しようとはしなかったでしょう。インドとインドシナ半島、東南アジアでは旧石器時代全体を通して技術的な違いがあります。オーストラリアへの植民も現在の証拠からすれば60000年前より古いことはなさそうです。旧人はこの土地では比較的近年まで生存しており、ホモ・フローレシエンシスは17000年前まで、デニソワ人は50000~30000年前までいたと考えられます。
インドの東において生物相の違いによる植民の遅れが推測されますが、MIS4になるとこの状況が緩和され、現生人類の拡散に大きな影響があったと思われます。熱帯においては、氷期が拡散の時期で間氷期が集合の時期であったという見解もあります。古気候再現によると、MIS4の時期になると熱帯雨林の一部が森と草原の混合に変化し、東インドからスンダランドに至るルートが開けます。また、東南アジア森林/草原サバナが開け、東南アジアを横断して極東につながります。MIS3のラオスに現生人類がいたことは確実ですが、年代が不確実ながらおそらくMIS4にもいたと思われます。環境が開けたためにスンダランドの端までは急速に拡散したと思われますが、そこから先は海への適応が必要になります。スフルランドへの進出は45000年以前ではないとの意見もありますが、北オーストラリアには60000~50000年前、フィリピンには67000年前に到達したとするものもあります。
中国における考古学的証拠と古気候は複雑で今回の論文では十分言及できません。ただ中国において後期旧石器時代のはじまりは35000~30000年前と若く、現生人類の確かな証拠は40000年前までしかありません。しかし、Huanglong Cave(黄龍)、Liujiang(柳江)、Zhirendongなどそれ以前の到達を示唆する遺跡はあります。中国の大部分は広葉樹林で、豊かな植物資源があります。ただおそらく人々は新規の文化や技術を作り出す必要があったはずで、そのために植民が遅れた可能性はあります。遺伝子学的にはアジアにおける現生人類と旧人の交配を示唆する証拠があります。
・議論とまとめ
早期に出アフリカを果たしたレバントの現生人類が、そのまま絶えたのかMIS5のうちにインドまで到達したのかはまだ明らかではありません。mtDNAを根拠として、70000~50000年前に出アフリカがあったとするのが大勢の見方ですが、この説がとなえる単一の出アフリカと急速な拡散についてはほとんど証拠がありません。遺伝子学的証拠、化石、考古学的証拠は60000年前の出アフリカを明白に支持しているとはいえず、他の解釈も可能です。この論文では後期更新世の気候再現を試み、新規の証拠を検討することで新しい出アフリカ説を呈示しています。その説では、MIS5のうちに出アフリカがあったとする方が、MIS4やMIS3よりも可能性が高いだろう、としています。また出アフリカの様子はより複雑であり、複数の集団が複数のルートで出アフリカを果たし、東へ進む間に各地で旧人と交配したであろうと考えられます。人類の拡散についてはあいまいな証拠が多数あるという状況であり、現存するデータを再解釈することが重要だと思われます。この論文ではレバントの現生人類は死に絶えずに拡散を続け、レバントだけでなくアラビアを経由した人々もMIS5のうちに東へ進み、74000年前のトバ火山噴火前にはインドに到達していた、としています。他に、出アフリカがMIS6であったという説、MIS7であったという説をとなえる人もいます。単一でなく、独立した複数回の出アフリカとする人もいます。
おそらく、MIS4とMIS3に大きな人口の変動があり、このせいでmtDNAの年代測定が若く出るのだろうと思われます。増えつつあるいろいろな証拠は複雑であり、単純なモデルで解釈するのは偏見が生まれる可能性があります。考古学的、化石、遺伝子学的な証拠は、虚心に見ると複雑な出アフリカの過程を示唆しているように思われます。