現状のところ、人類史および日本への拡散について管理者が学習してゆくブログです。
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2015/1/3 推敲・修正 図をシンプルなものに入れ換えました
2015/1/4 The Neanderthal Genomeからの図が間違っていたので訂正しました。失礼しました。
BDNF(Brain-derived neurotrophic factor)というタンパク質があります。日本語では「脳由来神経栄養因子」と呼ばれ、その名の通り脳に発現します。特にヒトの高次機能に関わる前頭前皮質および記憶に関わる海馬に多く発現しており、中枢神経の成長と可塑性に関わるため、知能や記憶に関与するタンパク質と考えられています[1]。
このヒトBDNF遺伝子の196番塩基はGからAに変異したもの(BDNF G196A)があり、これは66番アミノ酸のVal(バリン)からMet(メチオニン)への変異を起こします(BDNF Val66Met)。2003年に、この変異がエピソード記憶の低下をもたらすことが報告されました[2]。Val/Val群、Val/Met群、Met/Met群にそれぞれWechsler Memory Scale, revised version(WMS-R)を行い、そのなかの、2つのストーリーを聞かせ30分後に内容をどのくらい覚えていたか、というエピソード記憶の結果は、
[2]より改変(健常者群のグラフのみを抽出)
このように、Met/Met群で点数が有意に落ちていました。この論文では原因として、海馬機能の変化、神経細胞樹状突起におけるBDNF発現の低下、神経細胞刺激後のBDNF分泌量の低下を示しています。
その後の研究で、BDNFは統合失調症、自閉症、アルツハイマー病など、認知機能に関わる多くの病気の感受性遺伝子であることが示されました。健康なヒトの認知機能に注目した比較研究も多数行われ、BDNF Val66Met変異があると、エピソート記憶(episodic memory)だけでなく、陳述記憶(declarative memory)、言語学習および記憶(Verbal learning and memory)など、言語性の記憶力が低下するという結果が出ています。さらには運動性の学習能力の低下、空間認識の低下、WAISの動作性IQ(performance intelligence)で差が出た[3]という報告すらあります。
このように、散々な結果が出ているBDNF Val66Metですが、この変異は実際どのくらいの頻度で見られるのでしょうか、PubMedのSNPでrs6265(BDNF G196A のコードナンバー)を調べてみると、
初期のサピエンスの特徴を残しているとされるアフリカのヨルバ族では
ほぼ全てがG/G(Val/Val)です。ヨーロッパ人、日本人、漢族の順でA(Met)がだんだん多くなってきます。
ネアンデルタールやデニソワはどうなっているでしょうか。UCSC Genome Browserでネアンデルタールとデニソワの配列を見てみます。
ネアンデルタールはVi33.26という1個体のみがここの配列を読まれており、2つのシークエンスの片方がT(Met)になっています。総合的なシークエンスではC(Val)とされていますが、解読のクオリティは低く評価されています。デニソワは1個体ですが、C/C(Val/Val)のようです。
The Neanderthal Genome[4]では、SNPの周囲をよりていねいに解読したデータも出ています。rs6265を検索、Jump to region in detailから、Resequencingを見てみると、
ここではC/C(Val/Val)と見ています。
ネアンデルタールとデニソワは、おそらくVal/Valです。ヨルバ族はほぼ完全にVal/Valです。そうなると、Val→Metの変異は、出アフリカ後に全世界にサピエンスが拡散する過程で数を増やしたものと考えられます。
これは非常に特徴的な分布であり、たとえばBDNFとともに以前から知能との関係がよく知られているCOMT(Catechol-O-methyl transferase)のVal158Metという変異では[5]、ネアンデルタールはA/G、ヨルバ族はA/A 9% A/G 45% G/G 46%、ヨーロッパ人はA/A 25% A/G 46% G/G 29%、とBDNFほどの明白な違いは見られません。
大きな疑問が出てきます。BDNF Val66Metはたしかに記憶力を減弱させる、ようです。それなら、出アフリカとともになぜ数を増やすことができたのでしょうか。初期の遺伝子浮動で大きく増えた可能性はありますが、少なくとも淘汰はされていません。この変異がそれなりの割合で現在に残っているのは、多くの疾患感受性遺伝子と同様に偶然の産物なのでしょうか。とはいえ、知恵を武器として生きるヒトとして、記憶力の低下が生存競争に与える影響は少なくないとも思います。
考えてみると、最初に示したエピソード記憶低下のグラフも、総IQでは差は出ていませんでした。とすると、研究の対象となったヒトたちはどこかで記憶力の低下の埋め合わせをしているのかもしれません。日本のBDNF Val66Metが欧米より多いことを報告した研究者は、BDNF Val66Metを持つヒトは何か秀でた能力があるかもしれず、今後の研究が望まれるとしています[6]。
そのような報告はまれなのですが、パーキンソン病患者では、Met変異のある方が、Tower of Londonの結果が良かったという研究があります[7]。これはplanning(計画性)が優れていることを示すとされます。2014年には、視覚-運動の適応能力を見るための研究がデザインされ、左右が反転して見えるメガネをかけて、画面に一瞬現れるマークをタッチするテスト、左右の壁にある7つのマークをタッチしながら長い廊下を歩くテストが行われました[8]。
[8]より改変
画面をタッチするテスト(Reaching)では、最初はVal群とMet群に差はありませんでしたが、数回やるとMet群の方がより早く成績が上がりました。歩きながらタッチするテスト(Navigation)では、最初はMet群の方が成績が悪いのですが、2回目に差はなくなりました。
このことをあわせて、Met群は、視覚-運動の適応能力がVal群に比べて優れている、と結論しています。
サピエンスは出アフリカ時に記憶力の代わりに計画性と適応能力を得た、と考えられればたいへんに面白いのですが、そう簡単に言うには問題もあります。
ひとつは、Met群における秀でた能力がまだあまりはっきりしないことです。計画性の向上はパーキンソン病患者に限定した研究です、また視覚-運動の適応能力の向上については、研究デザインがやや技巧的で相当に限定された能力だけを見ている可能性があります。
70歳程度の高齢者において、Met群は記憶をベースとした処理の切り替え(memory-based task switching)が向上していたという研究[9]もありますが、これも高齢者に限定した研究です。
ヒトの脳は何か不都合があれば他の能力で代償しようとするものですから、BDNFの変異についてもあらゆる手段で代償されているのかもしれません。もしそうであれば「記憶力の代わりになる秀でた能力」は非常に多岐にわたり、検出が困難にもなりえます。
もうひとつは、単一の遺伝子でものを語るのは危険ということです。そもそも知能は非常に多数の遺伝子がわずかずつ影響していると知られています[10]。
他の条件によってBDNF変異の作用が異なってくることもありえます。たとえば健常者と統合失調症患者においてBDNF Val66Metの影響を調べた研究[11]では、Benton Judgement of line orientation(視覚空間能力に関わる)において健常者と患者で反対の結果が出ているようにも見えます(健常者側のデータでは有意差は出ていませんが)。
近年は、大規模なbirth cohort研究(ある時期にある場所で誕生した原則すべてのヒトを追跡調査する研究)において、GWAS(Genome-Wide Association Study: 100万前後のSNPを同時に調べて全ゲノムにおける疾患感受性遺伝子の遺伝子座をスクリーニングする手法)が多数行われています。知能との関連も追求されていますが、いまのところ、知能と関連する遺伝子は同定できずにいます[12]。
これは現在解析の進んでいる分野であり、これから知能に関わる複数の遺伝子群が判明することが期待されます。
BDNFはヒトの知能と深く関わるタンパク質であり、BDNF Val66Metという変異はアフリカ人とネアンデルタール・デニソワには見られず、アジア・ヨーロッパでは多く見られます。
この変異がある群は、相対的に記憶力が低いことが知られています。それを代償するような秀でた能力は現在のところはっきりしませんが、計画力、視覚-運動の適応能力、記憶による作業の切り替え、において優れているとした研究があり、「頭の柔軟性が良い」可能性が示唆されます。
出アフリカをしたサピエンスは、ガチガチの記憶力に優れた頭脳よりも、しなやかな柔軟性に富む頭脳が必要とされた、という仮説は非常に魅力的です。
知能の研究も非常に進んでいる分野ですし、また今後はGWASなどの大規模研究による成果が次々と出て、それによって知能と関連する遺伝子のより正確な様子がわかってくると思われます。現在のサピエンスの知能について解明が進めば、ネアンデルタールやデニソワの知能についても言えることは増えるでしょう。
それでもBDNFは相当に特徴的で興味深い分子であり、他の遺伝子との関連も含め、今後旧人の知能を解明するために中心となってくるものではないかと考えます。
(参考文献)
1)Iva Dincheva et al: Impact of the BDNF Val66Met Polymorphism on Cognition: Implications for Behavioral Genetics: Neuroscientist 18:439(2012)
2)Michael F.Egan et al: The BDNF val66Met Polymorphism Affects Activity-Dependent Secretion of BDNF and Human Memory and Hippocampal Function: Cell 112:257(2003)
3)Tsai,S.J.et al: Association study of a brain-derived neurotrophic factor (BDNF) Val66Met polymorphism and personality trait and intelligence in healthy young females: Neuropsychobiology 49:13(2004)
台湾の19-21歳の看護学生114人が対象で、PIQが
Val/Val 113.1 Met/Val 103.3 Met/Met 107.7 であり、
Val/ValとMet/Valの間に有意差があったとしています。
4)http://neanderthal.ensemblgenomes.org/index.html
5)J.Savitz et al: The molecular genetics of cognition: dopamine, COMT, and BDNF: Genes, Brain and Behavior 5:311(2006)
6)Eiji Shimizu: Ethnic Difference of the BDNF 196G/A(val66met) Polymorphism Frequencies: The Possibility to Explain Ethnic Mental Traits: American Journal of Medical Genetics Part B 126B:122(2004)
7)Foltynie T et al: The BDNF Val66Met polymorphism has a gender specific influence on planning ability in Parkinson's disease: Journal of Neurology 252:833(2005)
8)Brain Barton el al: Paradoxical visuomotor adaptation to reversed visual input is predicted by BDNF Val66Met polymorphism: Journal of Vision 14:1(2014)
9)Patrick D.Gajewski et al: The Met-allele of the BDNF Val66Met polymorphism enhances task switching in elderly: Neurology of Aging 32:2327(2011)
10)G Davies et al: Genome-wide association studies establish that human intelligence is highly heritable and polygenic: Molecular Psychiatry 16:996(2011)
11)Beng-Choon Ho el al: Cognitive and Magnetic Resonance Imaging Brain Morphometric Correlates of Brain-Derived Neurotrophic Factor Val66Met Gene Polymorphism in Patients With Schizophrenia and Healthy Volunteers: Archives of general psychiatry 63:731(2006)
12)Stephane LE Hellard et al: Genetic architecture of cognitive traits: Scandinavian Journal of Psychology 55:255(2014)