出アフリカの時期については諸説あり。出アフリカ直前にアフリカにおいて気候の乾燥があったことなど、アフリカ内部での人類史がまだ学習不足。
現世人類は出アフリカ以前にすでに現在と同じ認知・考察能力があり、その文化については近年まで存在した狩猟採集民族や古い伝統文化を参考にすることができる、というスタンスを取る。
2013/11/25 記
ホモ・エレクトスは、アフリカを出た最初の人類であった。およそ200万年前にはインドや東アジアへの移住を達成していた。
200万年前にはアフリカ大陸とアラビア半島はつながっていたが、地殻変動により次第に離れ、紅海が出現した。
紅海が出現して以降は、アフリカからユーラシアへ移る道筋は二通りとなった。寒冷乾燥の氷河期には紅海の南端は簡単ないかだで渡れるほどの幅となり、現在のエリトリアからイエメンに渡ることができた。さらにペルシャ湾は干上がっており、海岸沿いにインド方面へ移住が可能であった。また高温湿潤の間氷期にはサハラ砂漠が草原となり、現在のシナイ半島を通過し、レバント・コーカサス・ヨーロッパへと移住できた。
インド方面への移住は断続的に起こっており、そのなかにホモ・エレクトス・エレクトス(ジャワ原人)、ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)などがいた。彼らはオルドヴァイ石器より発達した石器は作成しなかったが、そのかわり現地で手に入る竹などを使用し、環境にふさわしい道具による適応を果たしていた。出アフリカ以前の最近の移住は16万年前で、このような比較的最近の移住から中央アジアに進出した人類はデニソワ人など30000年前程度まで存続したものもあり、ごく一部現世人類と交雑したものもあった。
180万年前の間氷期にレバント・コーカサスに移住した人類はホモ・ゲオルギクスと呼ばれたが、彼らはその後死に絶えた。次に80万年前にホモ・ハイデルベルゲンシスがレバント方面およびヨーロッパへの移住に成功した。彼らはアシューレアン石器とよばれる一段進化した石器を制作し、そのなかには実用以上の凝りを求めた均整な左右対称の石器も存在していた。
アフリカでも人類は小進化を重ねていたが、新しい進化した種が誕生するごとに古い種は駆逐され消滅していた。人類は多産で増殖が非常に早く、近縁種への攻撃性も持っており、アフリカの環境で狭いニッチを奪い合う2つの種が共存することは考えにくかった。
やがて、アフリカにホモ・ヘルメイが生まれ、25万年前にヨーロッパに移住した者たちはホモ・ネアンデルターレンシスとなり、そしてアフリカに残った者はホモ・サピエンスとなった。
250万年前から25万年前まで、ヒト族の歩みは実際には長い停滞の時期がほとんどで、時々にわずかに進化の時期とユーラシアへの殖民の時期があったにすぎない。オルドヴァイ石器もアシューレアン石器も100万年ほどに渡ってほとんど意匠を変えることなく作られ続けた。
文化そのものの進歩が継承されるようになると、人類の進化は飛躍的なスピードとなった。30万年前、ホモ・ヘルメイの時期にターニングポイントがあった。抽象的思考、優れた計画能力、発明能力、シンボルの使用が現れた。顔料を使用してボディペインティングや描画を行い、アクセサリーを身につけるようになった。彼らは剥片石器や尖頭器など高度に計画された技術が必要な石器を制作したため、この時代は本質的な進歩をもって中期旧石器時代と呼ばれるようになった。また本格的な狩猟がはじまり、初期の定住が開始された。また14万年前には長距離の交易が始まり、また貝の採取や漁など水産資源の活用を身につけた。
アフリカのホモ・ヘルメイは現生人類であるホモ・サピエンスとなった。20万年前にすべての現生人類の母系祖先である一人の女性、いわゆるミトコンドリア・イブが存在しており、当時数千人程度であった人類グループは現生人類すべての祖先であった。16万年前にはホモ・ヘルメイの頑丈さが失われ、骨格的にも現生人類となった。
125000年前の間氷期に現生人類はレバント地方に移住を果たしたが、その後の氷期に砂漠となったレバントでは生きていけず、消滅した。
85000年前の氷期に紅海は大幅に縮小して生態系が変化し、水産資源に頼っていた紅海南端の現生人類は紅海を渡って生域をユーラシアへ移動した。彼らは出アフリカ・イブと言われ、現在の非アフリカ人すべての祖先であった。彼らはこの時点で現在の人類の特徴をほぼ備えており、すなわち、シンボルを駆使し、複雑な言語を使い、宗教と神話を持ち、細石器を使用し、水産資源を活用し、広域に交易する能力があった。出アフリカの時点でヨーロッパ・アジアには旧人が生活していたが、現生人類は現生人類を特徴づけるアドバンテージがあり、多くは旧人を圧倒するポテンシャルを持っていた。
そのころの人類は小規模の血縁集団を作り、数十人単位で移動生活をし、物資は狩猟・採取・漁労によって得ていた。すべてのものを全員で分け合う平等社会であり、意志決定は全員で行った。それぞれの集団ごとに独特の風習と起源神話を持っていた。しかし、他の血縁集団とも物資の交換による交易関係を結び、ある一定のまとまりのある交易圏を作り、神話や言語に共通性を持つ文化圏を形成していた。神話は一定のメロディと伝統的な歌詞があり、口承であったが変化は少なかった。
集団ごとの風習は多様であり、不利益のある風習は淘汰される可能性があった。この淘汰により、婿入りや嫁入りなどで遺伝子を交雑させる風習、近隣と戦うときも消耗しすぎないようにする戦略、老人の知恵を生かす仕組みなどが普遍的に生き残った。新規の土地へ向かうときも以前の土地に残る人々と関係を保っていた。集団が山脈や河川などで複数に分散した場合、それぞれの方向へ向かった集団同士の関係が希薄となり、文化や言語が少しずつ分化していった。
ミトコンドリア・イブと出アフリカの時期については分子時計の精度が問題になる。
現状、分子時計の精度は遺伝子変化の速度の評価についてまだ十分でなく、相対的な年代はある程度考慮できても、絶対的な年代は大きく幅を取る必要があるように思える。
Ychrmosomeやmitochondria DNAの論文では、分子時計の根拠や較正の方法をいちいちチェックすべきなのだろうが、これから少しずつ、というところ。
現状、スティーヴン・オッペンハイマーの人類の足跡10万年全史の説に従う。
これは74000年前のトバ爆発以前にインドに人類が到達していたことを前提にしている。トバ以前の人類がインドで考古学的に発見されれば定説になると思う。