ここから先は個人的な感想
6-8万年前に出アフリカを果たした現世人類は、どのようなルートを通って、いつ東アジアに移住したのか。
おそらくはエリトリア付近からイエメンに紅海を渡り、海岸沿いにペルシャへ入ったであろうが、そこからはヒマラヤ山脈の北を通る北大陸ルートと南を通る南海岸ルートが存在する。
L3は早期にMとNに分かれ、NはすぐにRと分岐する。
10万年全史によればNは南アジア、とくにイラクのあたりが起源として推定され、Rもおそらくは南の湾岸地域が起源であろうと推測されている。そこから、NとRは東西両方に移住し、ヨーロッパへ向かったNの子孫はW I X、Rの子孫はE HV JTなどとなった。
しかし、そのときインドより東へ向かったNは、ほとんどRが主体であった。インドより東にNの古い枝はほとんどないが、この論文中にもオーストラリアで見られたNの古い枝に言及しており、論文中では説明が難しいものとしていた。近年になって、N10 N11といった、南方由来と思われるNの古い枝が報告されており、Rに伴ってごく少数のNも早期に東アジアへ入った可能性が高いものと考えられている。
加えて、マレーシアのsakaiからL2が報告されており、最初にアフリカを出た人々にはL3だけでなくL2も含まれていた可能性がある。となると、インドより東に向かったのは、RとNとM、それにL2ということになる。
Mはインドで誕生したと考えられるが、東アジアへ広く分布したのに対し、西方向へは全く移住しなかった。これは、きわめて重要な事実の一つであるが、十分な説明はなされていない。Mが誕生したのは、おそらくNよりさらに東側であったであろう。西へ向かう道にはすでにNが居住しており、Mの西進をはばんでいただろう。しかしそれだけでMが西欧で全くみられない理由が説明できるだろうか。
10万年全史ではトバ火山噴火と関連して考察しているが、説明にトバ火山は必須のものではないだろう。寒冷期の気候ではペルシア付近は砂漠が広がり、人類の往来はおそらく困難であった。この拡大するペルシア付近の砂漠が人口を分断したとき、遠く東に離れていたMは西に入ることができなかった、ということで説明できるように思われる。
もうひとつ、ペルシアからカザフスタン方面へ向かう北大陸ルートへ拡散した人々もおり、これはNの子孫であった。このルートはネアンデルタールやデニソワも用いていた可能性があり、利用しやすいルートであったはずである。ただ、これらホミニンが現世人類移住の障害になった可能性もありうる。南ルートに比べ東アジアへの到着が遅れたのはそのせいかもしれない。
この論文ではsupplementで各ハプログループの出現年代の推定データを出している。それに従うと、他に比べて際だって古い枝は4つで、
B5 49000 +- 8000
M7 48000 +- 37000
F 47000 +- 9000
B 46000 +- 15000
である。M7はもちろんMの枝であるが、BとFはRの枝であり、現在でも南方由来のN(R)を代表するハプログループである。
つづいて古いのは、
B4 38000 +- 8000
D 35000 +- 10000
D5 35000 +- 12000
M8 34000 +- 10000
F4 33000 +- 8000
F1b31000 +- 7000
F1 30000 +- 8000
となるが、DとM8はMの枝であり、しかも現在の分布からは北方系とされている。Mは間違いなく南方ルートと考え得るので、DやM8はインド方面から北方へ拡散していったことになる。この経路は明らかではないが、10万年全史によると最早期の現世人類が雲南から長江経由で速やかに海岸まで到達し、海岸沿いに北上、その後中央アジアに入ったというルートも想定される。N9は29000年前とされているので、北大陸ルートから東アジアへ到達するハプログループは、これらの南方由来のものより遅れて出現してくると言える。
初期に東アジアに入った現世人類は、南ルートを通っていたと考えられる。最初はMとM7、FとBが入り、次の時代にM F Bがさらに分岐したように思われる。その次の時代には北大陸ルートからの枝も到達し、いろいろなハプログループが急速かつ複雑に発展していく。
南ルートから東アジアへの進出路はどうであっただろうか。インド亜大陸で発展したハプログループは独特の発展をしており、そこから他地域に進出したものは少ない。また、東南アジア、オセアニア方面にはRの非常に古い枝が残存しており最初期に人類が到達したことは間違いないが、それらのハプログループを北方で見いだすことはできず、東南アジアなどを経由して東アジアへ到達したというルートは想定しにくい。そうすると、インド亜大陸、東南アジア方面を通過しないルートの可能性が高いということになる。それはヒンドスタン平野を東進し、東端から直接雲南地方へ入るルートが考えられる。近年では東アジアにおける初期の拡散で、雲南などの南中国がハプログループのリザーバーになっていたという有力な説がある。
このように推定すると、東アジアに拡散した現世人類は、ヒンドスタン平野からまず南中国へ進出したと考えられる。おそらくそのときM M7 F Bが主体で、わずかなNが含まれていた。これらは速やかに東へ向かい海岸に到達した。このうちさらに北方へ向かったものからM8とDが分岐し、また南方では新たにB4 B5 F1 F4が分岐した。次に最終氷期がLGMへ向かい始める頃北大陸ルートからN9などが加わり、以後はあらゆるハプログループが混在しつつ分岐を拡大した。
30000年前のころには、大陸北方ではマンモス・ステップとも呼ばれる東西に広く伸びた草原地帯があり、南方では東南アジアから南~東アジアにかけ、日本にまで広がる森林地帯があった。花粉分析によると33000年前くらいに気候の画期があり、それ以前は少なくとも福井県にはスギ・ブナが豊富であり、温帯性の広葉落葉樹が生育できた。このことから33000年前以前は、現在照葉樹林帯と呼ばれる地域に温帯性の広葉落葉樹主体の森が発展していたと考えられる。
日本に現世人類が到達したのは40000年前程度か。あるいは60000-40000年前か。それより遡る遺跡もあるようだが、少なくとも現世人類のものではないだろう。
4-6万年前はチョッパー、チョッピングツールなどが見られ、それ以前とされる石器と技術的な革新はなく、前期旧石器時代終末期とされる。40000年前くらいに画期があり、剥片生産技術や急峻加工が見られ、ここから後期旧石器時代と考え得るが、このころにはまだ地域差がないとされる。
AT層(29000年前?)より古くに石刃技法が誕生し、地域差も生まれている。
確実に日本に現世人類が到達したのは40000年前くらいだが、その前に少数の現世人類が到達していた可能性はある。また、少数の旧人が生活していた可能性もある。
最初に日本に到達したハプログループは、おそらく最初に東アジアに入った、M M7 F Bが候補であろう。これらのハプログループは東アジア全体に拡散しており、到達時にほぼ無人の地域に急速に拡大したことが推測される。
ここから先は、経緯も複雑だし、古気候についてよく調べないといけないので改めて考察していく。