これまで数回の記事で、頭蓋の形状および遺伝子の違いから、ネアンデルタールと現生人類には認知の違いがあるであろう、としてきました。しかし、考古学的な証拠を前提としたとき、ネアンデルタールと現生人類の差はどう見るべきなのでしょうか。
ヨーロッパでは70万年程度前からホモ・ハイデルベルゲンシスが出現し、彼らがネアンデルタールになったと考えられています。ネアンデルタールは30~20万年前ころからムステリアン石器という石器を作るようになり、あまり大きな技術的変化を見せずに45000年前ころにシャテルペロニアンなどの移行期文化を迎えたとされます。以降は42000年前~のオーリナシアン、32500年前~のグラヴェッティアン、26500年前~のソリュートレアン、21500年前~のマグダレニアン、と装飾品や壁画などを含む豊かな文化が一気に出現したと考えられています。
ムステリアンはネアンデルタールの文化であり、ちょうどヨーロッパに現生人類が進出したころに移行期文化が見られます。そして以後の文化はすべて現生人類のものです。このことから、ネアンデルタールは知的能力が劣っていたために現生人類に駆逐された、という見方が以前は一般的でした。また、ヨーロッパにおける現生人類文化の進化速度がめざましいものであったため、現生人類は40000~50000年前ころに言語を含むいろんな現代的能力を一気に獲得したのだ、という「革命」理論が20世紀おわり頃には盛んに議論されていました。
ところが、この「革命」に対する反論が、Sally McBreartyとAlison S Brooksによって2000年に出されます[1]。The revolution that wasn't という長論文により、現代的とされる行動が28万年前ころからアフリカにおいて少しずつ出現してきたことが示されました。mtDNAなどによる遺伝子学的研究で現生人類のアフリカ単一起源説が確立したこともあり、現生人類がアフリカで誕生しアフリカで現代的行動を発展させた、ことはもはや動かしがたい定説となっています。
一方ネアンデルタールの絶滅原因についてはいまだ謎のままです。ネアンデルタールの認知能力が現生人類に劣っていた、という意見はまだ根強いのですが、現代的とされる行動がネアンデルタールにもあったということがいくつもの証拠で明らかになっており、認知能力の違いは見いだせないという意見も近年はよく見られます。
最近では、2014年4月にPLOS ONEに発表されたNeandertal Demise[2]があります。これはこれまでネアンデルタールの絶滅原因とされてきた原因を11の項目にわけて反論を試みているもので、最終的に絶滅原因は人口の差にあり、ネアンデルタールは絶滅したのではなくサピエンスに同化吸収されたと論じています。
論文は当然アフリカでの現代的行動をふまえており、アフリカとの比較も多々出てきます。論文で述べられた11の項目をひとつずつ見ていき、それぞれにおいてアフリカとヨーロッパの違いを検討していきたいと思います。記述はNeandertal Demiseを参照しつつ書いており、参考文献の示されていないところはほぼNeandertal Demiseを参考にしています。
1)現生人類は完全なシンボル的コミュニケーションを持っており、文法的に完成された言語を持っていた。ネアンデルタールにはそれがなかった?
→アフリカでは73000年前のブロンボス洞窟(南アフリカ)から出土した、三角格子の刻み目がついたオーカー片が非常に有名で、溝や刻み目つきのオブジェは南アフリカの他の遺跡にも広く分布します[1]。三角格子の刻み目のような模様そのものには特別の意味があるわけではなく、もし当時のブロンボス人がこのような模様に何かの概念的意味を与えていたとすれば、それはシンボル思考と言えます。このようなシンボル思考は、「みず」という特別な意味のない発音に「水」という概念を与える、というような作用があり、つまり言語コミュニケーションには欠かせない機能であると言えます。
しかし、この三角格子の意味は不明で、シンボル的に使われたという証拠もありません。またシンボル思考以外に言語コミュニケーションの特徴とされる、文法の再帰性(ひとつの文章をユニットとして別の文章の一部として使用できる性質。完成された文法に存在するとされ、理論上無限に複雑な情報を伝達できることになる)、およびパターンの二元性(細かい「音」を一定の法則で組み合わせることで「言葉」を作ることができる)[3]については、これらの存在を明らかにできる考古学的証拠はほぼありません。模様のついたオブジェがあって、そこから言語の存在が類推されていますが、そこには大きな飛躍が多数あると、"Neandertal Demise"では批判します。
ネアンデルタールのシンボル的遺跡は皆無とされたこともありますが、現在ではいくつかの報告があります。Pech de l'Aze IおよびIV(フランス)には顔料として使用されたと思われる二酸化マンガンがあり51400年前とされます。Les Bossats(北フランス)からは顔料とされるオーカーが見つかっています。
Cueva de los Aviones, Cueva Anton(南東スペイン)では彩色され穴の開いた貝殻が見つかり、パレットの可能性が示唆されます。45000年前、50000年前の年代がでています。
Fumane(北イタリア)では100km運ばれたオーカー塗りの貝殻があり47600-44800年前とされます。
Maastricht-Belvedere(南東オランダ)では他地方から持ち込まれた顔料と思われるヘマタイトがMIS7の層から出ており20~25万年前の可能性があります。
フランスおよびイタリアの遺跡からはカットマークのある鳥の羽と足骨が出土しており、後代のエミラン(上部旧石器時代トルコ)の例から、装飾目的で使用されたと推定されています。時代は45000-51400年前程度になります。
Gorham's Cave(ジブラルタル)で発見された岩盤に刻まれた十字模様は意図的なものと考えられ、時代は39000年以前と考えられました[4]。
Cueva de Castillo(エル・カスティージョ洞窟)など、北部スペインにある洞窟壁画は40800年前以前にさかのぼる可能性があります[5]が、壁画の担い手がネアンデルタールであったかどうか確証はありません。
"Neandertal Demise"においては、線刻つきの骨や石器の多くは自然的な変化であったとして否定されている、としており、佐野が触れている[6]Tata(ハンガリー)の十字模様の刻みが入った貨幣状の石器(80000年前とされる)などについては述べられていません。
ネアンデルタールは75000年前ころから埋葬を行っていますが、副葬品については明白なものはなく、シャニダール洞窟(イラク)における、埋葬に花が添えられていたという有名な報告にも否定的な意見が見られます[7]。一方サピエンスは、10万年前頃にレバント地方のカフゼー遺跡とスフール遺跡で埋葬を行っていたという証拠がありますが、それ以後については37000年前ころまで埋葬の証拠はほぼありません。そのため埋葬は10万年前ころにレバントで出現した文化で、ネアンデルタールはその地でサピエンスと接触して埋葬を学んだのだという意見もあります。
2)ネアンデルタールの発明能力は劣っていた?
→上部旧石器時代においては、10000年未満の単位でつぎつぎに石器様式が変遷し、時間的空間的に多様性が豊富です。これは20万年におよびムステリアンを続けた中部旧石器時代と対照的でサピエンスがネアンデルタールに優っていた証拠とされます。中期旧石器時代のアフリカでは、南アフリカのハウィソンズプールトやスティルベイにおいて短期間で急速な技術革新があったとされ、これもサピエンスの発明革新能力の高さと考えられていました。
しかし、上部旧石器時代はすでにサピエンスがネアンデルタールと置き換わったあとの時代であり、この時代の技術をネアンデルタールと比較するのは正当とはいえません。
ハウィソンズプールトも現在では109000年前から52000年前という長期にわたっていたと考えられており、地域的な均質性もなく、短期間の急速な技術革新ではないと考えられます。一方MIS5以降のヨーロッパでは、アシューリアン伝統ムステリアン、キナ・ムステリアン、カイルメッツァーグループなど地域性が現れており、およそ70000年前から40000年前にかけて技術の進歩があったことが推測されます。
石刃技法は、丹念に調製した石核をつくり、連続で打撃を加えて次々と剥片を作り、比較的均一なサイズの剥片を多数得る方法で、アシューリアンを脱して中期旧石器時代になった指標と考えられています。"The revolution that wasn't"ではこの変化はホモ・ハイデルベルゲンシスからホモ・ヘルメイへの人種的な進化を伴う大きな変化であったとしており、またこの変化は概念上の大きな飛躍であり、もっとも重大な変化であったと考えられます[8]。
石刃技法はアフリカでは東アフリカのカプスリン遺跡で28万年前にみられますが、レバントのYabrudian技法においては35万年前とされます。ネアンデルタールのムステリアン技法も石刃技法の一種であり[9]、ほぼ同時期の30~20万年前から認められる[6]ようになってきます。
細石器についてはアフリカでは東アフリカのムンバで65000年前、南アのハウィソンズプールトで70000年前のものがあるようですが、ヨーロッパでは移行期文化のウルッツィアンにあるかもしれない程度で、確かなものは20000年前以降になるようです[1]。
骨器はアフリカではザンビアのKabweで125000年前、南アでは80000年前くらいからあるようです。中央アフリカは返し付きの尖頭器が有名ですが同様に返しのついた骨器もあり、75000あるいは90000年前までさかのぼるようです[1]。ネアンデルタールは骨を砕いて石器的に使用していた例は多いのですが骨器としての利用はほとんどありません、しかしドイツのカイルメッツァーグループから磨製の骨製尖頭器(46000-42000年前)が出ており、移行期文化の直前に骨器を使用していた可能性があります[6]。
3)ネアンデルタールの狩猟能力は劣っていた?
→以前はネアンデルタールは死肉漁りをしていたとされたり、身体の傷がおおいことから近接格闘で獲物を得ていたという意見がありました。
しかし、狩猟場の発掘解析や、食事内容を推測するための化石骨の同位体解析が進んだことで、ネアンデルタールは優秀な狩猟者で肉食中心の生活をしていたことがわかっています。MIS9(337000年前)~MIS3(57000年前)のネアンデルタールの狩猟遺跡から、大型動物の群の習性を利用し、自然地形を利用した組織的な追い込み・待ち伏せ猟を行っていたことがわかっています。獲物は1~2種に限定され、狩り場は繰り返し使用されています。このような計画的な狩猟がないことでネアンデルタールが劣っていたという意見がありましたが、完全に否定的です。また、身体の傷については提唱者のTrinkaus自身が、後期旧石器の現生人類も同様の傷があるとして自説を撤回しているようです。
また、自分の居住区域を整備することは、計画的な狩りと同様に、資源や土地の計画的な利用という面において現代的な行動とされます。
居住区域の整備跡は痕跡が残りにくく、また後世の修飾も受けやすいため検出は困難です。自然的な変化と判別が難しい場合もあります。しかし北アフリカでは、アテリアン文化の遺跡のいくつかに一時的な壁か柵の跡、および石積みの構築物があるようです[1]。南アフリカのザンビアのムンブア洞窟では100000年前の炉があり、ハウィソンズプールトにも同様の炉があります。しかしアフリカでもこれら以外の炉は見いだせません[10]。
Tor Faraj(ヨルダン)のネアンデルタール遺跡では55000年前に15~20人が炉のまわりに集っていた跡があり、空間の機能的な分割も見られるそうです。またAbric Romani(スペイン)では50000年前に炉の跡があり、燃料と思われる薪の集積が見いだされるようです。
4)ネアンデルタールの武器は投擲具の面で現生人類に劣っていた?
→以前は、ネアンデルタールは投げ槍を持っていなかったとされたこともありますが、1995年にシェーニンゲン(ドイツ)から40万年前の投げ槍が見つかり、ネアンデルタールも投げ槍を使用していたことは明らかです。
現生人類のみが弓矢を使用していたという説があります。クラシーズリバーの60ka以前の非常に小さな水晶石器、およびピナクルポイントの71ka 60kaの背つき石刃を鏃と解釈する意見があります。しかし、これらの石器は石器全体のごく一部にすぎず、同様の小さな石器が槍の返しとして使われたという後代の証拠もあります。クラシーズリバーの技術は後代に伝えられず、オーストラリアアボリジニや初期のアメリカ移住人類は弓矢をもっておらず、もしアフリカ中期旧石器時代の現生人類が弓矢を持っていたとしたら、このたいへん有用な技術が失われてしまったことを意味し、それはとても考えにくいことです。"Neandertal Demise"の意見によれば、中期旧石器時代のアフリカに弓矢があったとする明白な証拠は現在のところありません。
5)ネアンデルタールの食物資源の幅は狭かった?
→ネアンデルタールは現生人類と比べて食物資源の幅が狭く、そのため競争に負けたという説があります。ネアンデルタール骨の同位体検査では彼らが肉食におおきく偏っていたことが示されています。
しかし同位体検査では植物たんぱく摂取の検出は困難です。栄養学的に考えてもネアンデルタールが肉だけを食べていたとは考えられず、動物資源からでは得られない様々な栄養素をどこからか得ていたはずです。ネアンデルタールにも野生マメ、どんぐり、ピスタチオ、松の実、その他植物種子を利用していた遺跡があります。El Sidron(スペイン)からは調理された炭水化物が検出されています。
一方水産資源利用の証拠は乏しく、Castelcivita Cave(イタリア)にサケ・コイ・ウナギなどの淡水魚利用が見られますが40000年前です。アフリカでは14万年前に漁と貝の採取が始まっています[11]。
6)動物を狩るワナは現生人類にしかなかった?
→動物を狩るワナは現生人類のみが持っており、それが長期的な展望を持つ認知能力の証拠とされたことがありました。しかし、ネアンデルタールも小動物や鳥を多数狩っていた証拠があり、そのなかにはワナによる狩猟も含まれていたと考えられます。
ノウサギ・ウサギ・鳥の利用はMIS9(337000年前)にさかのぼるものもあります。レバントではガゼルなどの小偶蹄類が利用されていました。カメ・ビーバー・マーモットもあります。クマ・キツネ・イタチなどの肉食獣を利用し、毛皮として使用したものもあります。
Abri du Maras(フランス、早期MIS4)では12の石でできた人工物の上からねじった繊維が見つかっており、ワナの可能性が高いと考えられています。
7)現生人類はより大きな社会ネットワークを持っていた?
→ヨーロッパにおいては、上部旧石器時代からときには300kmを越えるような遠距離交易が盛んになり、対して中部旧石器時代には部族間や地方間の移動はごく少なく、社会的関係を持つ領域が狭かったとされます。東アフリカでは黒曜石の流通があり、10~13万年前に、北タンザニアのNaseraで240km、ムンバで320km離れたところの黒曜石が見つかっています。ここでは特定の集団が黒曜石の流通をコントロールしていた可能性があります[1]。
とはいえ、基本的には遠方からの資材はまれであり、地域の連帯は少なかったようです。ケニアにおいては40000年前ころに45-70km遠方の黒曜石の利用が増え、ようやくこのころに集団間の交易が盛んになったと推測されています。
西ヨーロッパの中期旧石器時代は交易が盛んではなく、最長で110-120kmです。中央~東ヨーロッパでは200kmを越える例があり、カルパチア山脈を越える280kmという例もあります。またMIS5(13万年~71000年前)のKulna Cave(チェコ)で230kmという例があるそうです。
ただ、中期旧石器時代のレベルではアフリカでもヨーロッパでも長距離の交易は基本的にはまれであり、この時期のネアンデルタールと現生人類の社会的ネットワークに明白な差は見いだせないようです。また"Neandertal Demise"においてはハウィソンズプールトが背付き石刃の流通を軸に地域社会の連帯を作っていた[1]という説には懐疑的なようです。
8)ヨーロッパに進出した現生人類は当時のネアンデルタールより人口が多かった?
→MellarsとFrenchは2011年のサイエンスの論文で、後期のネアンデルタールと最早期の現生人類遺跡を数と、石器および動物骨と、空間的広がりから比較し、現生人類の進出後にヨーロッパの人口は10倍になったと推測しています。しかしその後、DogandzicとMcPherronに多くの不備を指摘され、5倍の規模と改めているようです。
Conardは南ドイツのSwabian Juraにおいて、狭い範囲でより正確にコントロールされた比較をおこない、ネアンデルタールの人口密度は一様に現生人類より低かったと結論しました。
確実とはいえませんが、考古学的な証拠からは人口の差は現生人類がネアンデルタールに交替した原因のひとつと考え得ます。"Neandertal Demise"では、ネアンデルタールと現生人類は交配したが、人口の差によってネアンデルタールの形質の多くが失われ、結果的に一部の適応的遺伝子を残して現生人類に吸収されたと考えています。
9)柄を接着する技術、火の扱いについては現生人類の方が上回っていた?
→現生人類は石器を柄に取り付ける接着技術に複雑な技法を持っており、その点に高い認知能力を見いだす意見があります。
しかし、ネアンデルタールは20万年前から樹皮から作られたピッチを接着剤として利用していました。ピッチは酸素を遮断して340-400度にする、という制御された技術が必要となり、完全に人工的なもので、同様に高い認知能力の証明となりえます。
10)気候悪化がネアンデルタール絶滅につながった?
→40000年前のThe Campanian Ignimbrite火山爆発による気候変動が影響したという意見がありますが、近年この火山噴出物の層が、移行期文化およびいくつかの上部旧石器文化の上の層に見つかったため、火山爆発がネアンデルタールの絶滅の原因になったことは否定されました。
11)トバ火山の噴火が現生人類を大きく進化させた?
→75000年前のインドネシア、スマトラ島でトバ火山の大噴火が起こり、現生人類が絶滅寸前となったことが、逆に以後の繁栄につながったという説があります。しかしこの時期のアフリカに環境変動による種の絶滅は全く見られず、この説は否定的です。
以上、1)~7)、9)については、現生人類とネアンデルタールの認知能力の差に関わるものです。
"The revolution that wasn't"には、アフリカにおいて現代的な行動がいつごろ出てきたか、を一覧にした非常に有名なグラフがあります。そこに、ネアンデルタールにおいて同様の行動がいつごろ出てきたと考えられるか、重ねて描いてみました。
[1]より改変
ルヴァロア技法によるムステリアン石器を石刃技法(blade)の一種として捉えてよいか、一部の記述におそらく「石刃」と「細石刃」の混同による混乱があるようです。少なくとも人類の進化10万年全史には「異なる場所で発見された中部旧石器時代の石器は異なる名称で呼ばれている」[9]と記してあります。石核を調製して、そこから少しずつ割り出した剥片を利用する、という点でムステリアン(ルヴァロア技法)は石刃技法と同一であり、またルヴァロア技法は石刃を取る技術も含みます[12]。これは20~30万年前から存在します。またムステリアンは尖頭器を伴います。
ネアンデルタールのすり石は、"The revolution that wasn't"によるとスペインのCueva de Castillo, Cueva Morinから報告されており、時期はシャテルペロニアンとされる[13]ようなのですが、Cueva de Castilloの洞窟絵画をネアンデルタールと結びつけるなら、ここでネアンデルタールがすり石で顔料を作っていたと解釈されることになります。
顔料は、二酸化マンガン石などが複数報告されているようですが、20~25万年前と報告されたヘマタイトだけが特別に古い年代になっているようで、ほとんどは50000年前より新しい年代です。アフリカでは東アフリカのカプスリン(ケニア)において28万年前から、すりつぶされた痕のあるヘマタイトとオーカー、すり石が見つかっており、彩色された可能性のある石器・骨片・卵殻があります。年代が少しあいて、12万年前以降から南アで広くオーカーのペンシルなどが出てきます。
絵画は、ネアンデルタールが残したとされる絵画はほぼ皆無で、Cueva de Castilloの絵画をネアンデルタールと結びつけるとしても時代は40000年前程度です。中期~後期旧石器時代のアフリカの絵画は最古のものとしてナミビアのアポロ11遺跡のものがありますが、年代は28000年前とされており、明白にヨーロッパに先行するわけではなさそうです。ただ、59000年前までさかのぼるとする意見もあるそうです[14]
ネアンデルタールの線刻は広く認められたものはほぼなく、厳密に取ると線刻はないことになります。アフリカにおいてはブロンボス洞窟の有名な三角格子模様つきオーカーなど、明白に模様ととれるものが多数出土します。
返し付きの尖頭器はネアンデルタールにはありませんが、石器技術の地域化ととらえれば、アシューリアン伝統ムステリアン、キナ・ムステリアン、カイルメッツァーグループなどが出現してきた80000年前ころがアフリカの返し付き尖頭器に匹敵するかと考えられます。
アフリカのビーズに匹敵するのは、鳥の羽を用いた装飾品や獣の歯のビーズということになりそうです。時期は50000年前程度です。
こうしてみると、石刃技法を編み出してアシューリアンを脱した時期はアフリカとヨーロッパでほぼ同時期です。石刃の進化はヨーロッパでも見られます。骨器はネアンデルタールでは遅れ、細石器には到っていません。
線刻についてはアフリカの方が質・量ともに上回っています。彩色および顔料についてもアフリカの資料の方が豊富です。装身具もアフリカがやや先行するようです。とはいえこれらの表現活動に関するものもネアンデルタールにないわけではありません。
絵画についてはアフリカもヨーロッパも40000年以前のものは明白ではありません。
水産物の利用はヨーロッパでは乏しいようですが、ネアンデルタールも多彩な食料源を持っており、環境の違いが食料源開発の違いになった可能性は考慮すべきです。
ネアンデルタールも新しいものを産み出す能力は十分持っていた、と考えます。ただ現生人類より時期的にやや遅れます。これは生物学的な資質の違いというより、環境の違いで説明されるべきものと思われます。新しいものが生物学的な資質、つまり進化によって生み出されるのであれば、一度出現すれば消滅することはないはずです。しかし実際はアフリカにおいてハウィソンズプールト技術が継承されなかったり、空白期があります。ネアンデルタールに生物学的に新規のものを生み出す能力がないのであれば、全く現代的行動は出てこないはずです。ところがそうではなく、遅れるにしてもいくつかの現代的行動はネアンデルタールにも見られるのです。
現生人類同士でも、環境の違いで文明の進歩が違うという現象は明白に見られます。「銃・病原菌・鉄」でジャレド・ダイヤモンドが示したように、「歴史は異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」[15]、のです。
新しい環境へ適応することも現代的行動とされ、アフリカでは熱帯雨林への進出が現代的ととらえられます。そうすれば寒冷の地に飛び込み、数十万年もの繁栄を果たしたネアンデルタールの行動がまず真っ先に評価されるべきでしょう。彼らが初めて寒冷の地で成功した人類となったのは、おそらく安定した狩猟が確立したからと思われます。大型動物が群れをなす寒冷の地は、寒冷を克服し大型動物を狩猟できれば安定して食糧が得られる豊かな土地になりえます。
狩猟はおそらくホモ・エレクトスの時代に徐々に進化し、人類を死肉漁りの地位から狩猟者に引き上げました。ホモ・ハイデルベルゲンシスの時期に狩猟の完成度は高まり、それゆえに初めて寒冷地への進出が可能になったと考えます。彼らがネアンデルタールと現生人類の共通祖先であるなら、ネアンデルタールにも最初から高い認知と新しいものを産み出す潜在的能力があったとするのは、むしろ当然のことのように思えます。
しかし、アフリカの現生人類はネアンデルタールよりも少し速く表現活動や道具の開発を進めています。
豊かな生物層を持つアフリカは寒冷地より支えられる人口は多いはずで、人口的な違いが進歩の速度の違いにつながった可能性がまずは考慮されます。単純に、人の数が多くなれば進歩は速くなります。そして増えた人口は社会的ネットワークの増大につながり、アフリカでは広範囲にわたるコミュニケーションをとる必要が同時期のヨーロッパよりも大きかったと推測されます。
環境が現生人類とネアンデルタールの差を生んだとしても、数十万年という時間は遺伝子にもその差を刻み込んでいます。これまで数回の記事で、現生人類は数十万年かけて前頭葉・側頭葉・頭頂葉を発達させ、頭蓋骨の形状にその変化があらわれていることを示しました。これは、神経ネットワークの刈り込みによる発達を進化させたということであり、生後に社会的刺激から学習する量を増大させる方向へ働いたということです。つまり現生人類は数十万年前から社会的に学習する量をどんどん増やすように遺伝子的変化をしているのです。
ネアンデルタールは現生人類より視覚処理に優れていたとされ、それは北の薄暗い地域で高い狩猟レベルを維持するために進化したと推測されています。技術や文化の伝承も、見て覚える、ように伝えられた可能性があります。
アフリカではコミュニケーションの質が淘汰圧となって言語処理が発達したと思われ、技術や文化も言葉で伝えられる比重がより高くなっていたかもしれません。このような違いは自意識や集団意識、あるいは世界に対する考え方の違いにまで及んでいたかもしれないのですが、しかしその根本にある高い認知能力や新しいものを産み出す力には差がなかったのではないか、というのが全体的な印象です。
門脇は[16]、現生人類がヨーロッパに進出したときの状況を、移行期文化にネアンデルタールが関与していた場合と、移行期文化が完全に現生人類の文化であった場合にわけて考察しています。前者の場合、移行期文化とハウィソンズプールトのようなアフリカの進んだ中期旧石器文化の間に明白な差を見いだせず、後者の場合、移行期文化が移行期直前のネアンデルタールの文化との連続性が指摘されており、いずれにしてもネアンデルタールと現生人類の技術的な差は明らかとはいえないようです。
アフリカから来た現生人類は、発達したコミュニケーションによって生存競争を勝ち抜いてきたはずです。そうなれば、ヨーロッパに進出した現生人類も、ネアンデルタールとコミュニケーションをとった人々が有利になったとは考えられないでしょうか。狩猟の方法、現地特有の食材の使い方、はてはネアンデルタール独特のものの考え方など、学ぶものはたくさんあったはずです。さらに遺伝子的な交流は病原体に対する抵抗力を高めた可能性があり[17]、想像をたくましくすれば、現生人類の言語処理とネアンデルタールの視覚処理が備わった両人類のハイブリッドたちがその後の現生人類文化が花開くきっかけを作ったことも考えられると思います。
考古学的にみると、ネアンデルタールにも現生人類と同様に現代的行動を取っていた証拠があり、ネアンデルタールの潜在的な認知能力、発明能力は現生人類に匹敵していたと思われます。しかし、主に人口的な環境の違いがあり、ネアンデルタールの進歩は現生人類よりやや遅れていたようです。
しかし、現生人類がヨーロッパに進出したとき、ネアンデルタールと明白な技術の差があったとは指摘できず、それをネアンデルタール絶滅の原因とすることは否定的です。むしろ現生人類はネアンデルタールとコミュニケーションを取った方が有利であったと思われ、文化的・遺伝子的な交流を行った集団が存続した可能性を考えます。その結果、つぎつぎと来る現生人類に吸収・同化されてネアンデルタールは形質を消滅させたのではないかと考えます。
参照
1)Sally McBreaty, Alison S.Brooks: The revolution that wasn't: a new interpretation of the origin of modern human behavior: Journal of Human Evolution 39:453(2000)
2)Paola Villa, Wil Roebroeks: Neandertal Demise: An Archaeological Analysis of the Modern Human Superiority Complex: PLOS ONE 9:e96424(2014)
3)内田亮子: 人類はどのように進化したか 生物人類学の現在 シリーズ認知と文化6: pp120: 勁草書房(2007)
4)Rodriguez-Vidal et al.: A rock engraving made by Neanderthals in Gibraltar: PNAS (DOI10.1073/pnas.1411529111) (2014)
5)A. W. G. Pike et al.: U-Series Dating of Paleolithic Art in 11 Caves in Spain: Science 336:1409(2012)
6)佐野勝宏:ヨーロッパにおける中期旧石器時代から後期旧石器時代への移行プロセス: 考古資料に基づく旧人・新人の学習行動の実証的研究 3 「交替劇」A01班2012年度研究報告:27(2013)
7)海部陽介:人類がたどってきた道 "文化の多様化"の起源を探る NHKブックス1028: pp137: 日本放送出版協会(2005)
8)スティーヴン・オッペンハイマー: 人類の足跡10万年全史: pp124: 草思社(2007)
9)スティーヴン・オッペンハイマー: 人類の足跡10万年全史: pp121: 草思社(2007)
10)スティーヴン・ミズン: 歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化: pp371: 早川書房(2006)
11)海部陽介:人類がたどってきた道 "文化の多様化"の起源を探る NHKブックス1028: pp87: 日本放送出版協会(2005)
12)スティーヴン・ミズン: 歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化: pp321: 早川書房(2006)
13)Sophie A. de Beaune: Nonflint Stone Tools of the Early Upper Paleolithic: THE COMPLEX RECORD OF THE EARLY UPPER PALEOLITHIC: pp163: CRC Press(1993)
14)スティーヴン・ミズン: 歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化: pp355: 早川書房(2006)
15)ジャレド・ダイヤモンド: 銃・病原菌・鉄 上巻: pp35: 草思社(2000)
16)門脇誠二:旧石器文化の時空変異から「旧人・新人交替劇」の過程と要因をさぐる:アフリカ、西アジア、ヨーロッパの統合的展望: 考古資料に基づく旧人・新人の学習行動の実証的研究 3 「交替劇」A01班2012年度研究報告:8(2013)
17)Laurent Abi-Rached et al.: The Shaping of Modern Human Immute Systems by Multiregional Admixture with Archaic Humans: Science 334:89(2011)