ネアンデルタールは成人男性の平均で1600mlという、現生人類の1450mlと比較しても大きな脳を持っています。しかし、現生人類は14万年以上前からの長距離交易、75000年以上前からの象徴の使用など、いわゆる現代人的行動が見られ、ネアンデルタールにはなかった何かの高い知性をもっていると一般に考えられています。
現生人類には脳容量では測れない何か特別な脳機能があるのでしょうか。ただ、すでに絶滅した人類の脳についての証拠はほぼ化石しかなく、比較検討はほとんど形態学的な手法によります。頭蓋骨は基本的には脳のいれものなので、頭蓋骨の形状は脳の形状に相似します。頭蓋骨の変化を見れば、脳の変化を大きく捉えることができそうです。
ネアンデルタールの頭蓋骨は後頭部方向に長く伸びているのに対し、現生人類の頭蓋骨は全体として球形に近くなっています。「
人類大移動」(印東道子編(2012)朝日選書886)ではZimmer,C.(2005):Smithsonian Intimate Guide to Human Origins.:Smithsonian Booksから図を引いて、ネアンデルタールの頭蓋はそれまでの人類の進化、つまり、アウストラロピテクス→ホモ・ハビリス→ホモ・エレクトスと続く進化の延長上にあり形状としてはほぼ変わりがないのに対し、現生人類の頭蓋は異質ともいえる形状の変化があることを示しています。
このような変化をまとめた図を作ってみました。アメリカのスミソニアン博物館の
ウェブサイトでは人類化石の3Dデータをぐるぐる動かして見れるようになっています。ここにあるいくつかの人類頭蓋骨化石のデータを並べて作ってみたのが下図です。相対的なサイズは不正確です。また図をわかりやすくするために画像を少し回転したものがあります。
よく見ると、ネアンデルタールの頭蓋がホモ・エレクトスと大きく形状が変わらないのに対し、サピエンスの頭蓋が球形に近く変化してきていることがわかります。現生人類の脳の形状は、おそらくホモ・ハイデルベルゲンシスの頃から何か大きな質的な変化をとげているのです。
彼らは化石の3D CTを撮影し、いわゆるバーチャル再構築を行って頭蓋骨を再現しました。頭蓋骨の内腔は、ほとんど脳の形状そのものと考えられます。こうして得られた新生児の脳形状をネアンデルタールと現生人類で比較しています。
Journal of Human Evolution 62:300より改変
ネアンデルタールも現生人類も、新生児の脳形状は全くといっていいほど差がないことがわかります。しかしながら、成人の脳はあきらかに現生人類的あるいはネアンデルタール的な特徴を帯びてきます。
彼らは頭蓋内に21の計測ポイントを設定し、現生人類とチンパンジーを62体ずつ、ネアンデルタールを10体測定し、各ポイントについてPCA解析を行っています。現生人類とチンパンジーに関しては、歯の生え方(乳歯以前/不完全な乳歯/完全な乳歯/第一大臼歯/第二大臼歯/第三大臼歯)によって年齢を分類し、脳の発達過程をプロットしています。
そうすると、チンパンジーとネアンデルタールの脳は新生児から成人までひとつながりのゆるやかな変化をしているのに、現生人類の脳だけが新生児から乳歯が生え出すまでのわずかな間に大きく形状を変えていることがわかりました。
Journal of Human Evolution 62:300より改変
この部分を除けば、3者の脳発達は似たような経過であると思われます。つまり現生人類の脳だけには乳児期に特有な形状の変化があり、そのためにネアンデルタールや他の絶滅人類とは質的に異なる形になっているのです。これは、現生人類の脳が旧人とは質的に大きく異なる部分があることを示唆します。
頭蓋内腔の形状から脳機能を推定することには限界があるためか(
ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:C02班2010-2011年度研究報告 pp29)、著者等は、論文内では形態から推測した機能について明言していません。しかし論文の考察において、ヒトの最初の1年が認知の発達に極めて重要であること、また前頭前皮質がヒトにおいては他の霊長類に比べて遅れて発達し、しかも非常に大きくなり、その可塑性がヒト特有の高度な認知に大切であることに触れています。つまり、現生人類は乳児期に前頭前皮質を大きく増大させ、その可塑性によって高い認知を実現しており、それと脳の形状の変化には関連がある可能性がある。そして、これはおそらく現生人類に特徴的な現象ではないか、と推測しているものと思われます。
脳の発達においては、まず神経細胞のネットワークを過剰に産生し、その可塑性(plasticity)によってネットワークを剪定(刈り込み)するという現象が起きています。
前頭前皮質は新生児では発達がいちばん遅れている部位ですが、誕生後に急速に発達を始め、3歳になるころには脳の中でもっとも複雑な部位になります。思春期から青年期にかけて盛んに刈り込みが行われますが、可塑性は成人になってもある程度保たれています。この成長は認知能力の成長、言語の発達、ワーキングメモリー、象徴的思考の発達と関連し、いわゆる社会的な脳の発達をもたらします。現生人類はネアンデルタールよりもさらに小児の成長が遅いとされており、これも、より長い期間を社会脳の発達に費やすためと考えることができます。
可塑性の調節にはおそらくエピジェネティクスや非コード領域の関与が考えられ、非常に精細でまだ十分研究されていない部分です。しかし、可塑性に関わるタンパク質であるKLK-8に関しては現生人類に特有の変異があることが知られており、神経の可塑性について現生人類がネアンデルタールとも何らかの差があることは遺伝子学的にも大いに考え得るところです。
現生人類は、ネアンデルタールと比べてもより大きく前頭前皮質を発達させ、しかも可塑性を高めることによって高い社会脳を獲得した、という仮説は成り立ちそうです。ただ化石から脳の詳細な機能を推測することには限界があり、現状では証明の難しい部分になっているようです。
ところで、自閉症は乳児~小児期の脳の増大が標準よりも大きいことが知られています。現生人類的な脳の特徴が、自閉症にはより強く現れるのです。いっぽう自閉症は神経ネットワークの刈り込みが比較的少なく、社会的機能の発達が弱い一因になっていると考えられています。
ネアンデルタールは前頭前皮質の発達がおそらく現生人類よりも低く、自閉症スペクトラムは前頭前皮質がいわば過剰に発達するのに刈り込みが追いつかず、いずれも社会的機能の違いとなって現れますがその原因にはやや相違があり、このことからもネアンデルタール=自閉症と単純には考えられないと思われます。
前頭前皮質の可塑性は、個人の生得的な資質と社会的に受けるさまざまな刺激の違いにより、ひとりひとりの個性をうみだしています。自閉症スペクトラムでは前頭前皮質が過剰に発達するのに社会的な刺激に対する刈り込みに時間がかかり、結果として多彩な前頭前皮質ができあがる、ということは考えられないでしょうか。自閉症スペクトラムは多彩な個性を持っているのです。
ネアンデルタールはそもそもの前頭前皮質の発達が低いため、多彩な個性を生み出すことはないかもしれません。社会的機能は現生人類より低いことが予測され、おそらく自閉症スペクトラムの一型に似るのですが、それ以外の多彩な個性はネアンデルタールには乏しかったのではないかと推測します。
では、ネアンデルタールはどのような脳を持っていたのでしょうか。推定に推定を重ねて物語に近くなっていますが、現状のところ、「視覚優位の忘れ得ぬ脳」を持っていた可能性を検討しています。現代に来ればきっとサヴァンと言われるでしょう。次回以降、検討続けていければ……と思っております。